長永の岩槻B級スポット紹介
群馬より岩槻に向かった一行ですが、途中で渋滞やゲリラ豪雨もあり、休憩入れながらで岩槻に着いたのは、夕方どころか、なんと一九時頃でした。
『何となく資正公の居た岩槻を感じられれば良い』
吉田知絵美さんはそれだけ申されており、当初は岩槻城址公園を中心に岩槻城を考えていましたが、もう陽も落ち、女性方を案内するには厳しい時間でした。
元々、此度の五百年祭の話があるまで、太田資正公は、岩槻では忘れられてしまっていた存在。
なかなか資正公推しな史跡はありません。
そうした時、岩槻ICで高速降りて、ここから岩槻の台地に入る事を説明していて、『ここだ!』と、とある神社のことが頭に降りてきました。
という事で、『吉田知絵美さんを岩槻で一番最初に案内した所』は、この加倉の久伊豆神社です。
案内した理由は入口の史跡案内板にあります。
『元亀年間(1570~1573年)、時の岩槻城主太田資正は、岩槻城の西方箕輪郷の一部向原を分け、村高八百七十五石を以って加倉村と改めました。その頃農人が祀っていた久伊豆大明神を村の鎮守「久伊豆神社」として神璽を奉じて中島の地に遷し祀られました』
とのことで、ここには岩槻城主として資正公の事績が書かれており、神社をここに遷したのも資正公との事です。
岩槻内の史跡案内板で、資正公の名が載るものはいくつかありますが、この時間では暗い場所が多く、ここは街内なので安心と踏んだのです。
資正公の名をやっと見られた知絵美さんは非常に喜ばれておりました。
さあ、一行はここより岩槻の街へ入っていきます。
次回をお楽しみに♪

さて、昨年の八月。
ふれあい市終了後、知絵美さんが唐突に「これから岩槻に行こう」と申され、岩槻に行くことになりました。
目的はまさに太田資正公の居た岩槻を見に行きたいとのことで、知絵美さんは書籍等で資正公を知って興味津々状態。
自分も元から資正好きで、この活動の根源が資正公という程ですので、行きたいなら是非ともどうぞというくらいでした。
でも、ちょっと冷静に考えてみましょう。
時間は十五時頃。箕輪城から岩槻まで軽く百キロくらい距離があります。
着くのは夕方過ぎ。果たして、どこを案内したのか?
次回をお楽しみに♪